そりゃあ20代と同じ動きをするオッサンがいるとしたらそれはそれで薄気味悪いわけだが、誰でも、加齢とともに体力は著しく低下する。管楽器奏者は息が薄くなり、長時間の練習がままならぬ事態に直面する。
しかし、息を調整するのがすべてといっても差し支えない楽器だから、鍛練を継続していないと、ある日息のコントロールが衰えたと実感することになる。
それは緊急事態であって、気付いたときはだいたい手遅れに近い。コントロールを取り戻すのに恐ろしく長い時間を必要とする。そういう場合は、悔恨の情にさいなまれつつひたすら長い音を、気を失いそうになりながら吹き続けるしか復活の手立てはない。それを怠ればさらに症状は悪化し、ついには音だけでなく、リズムも何もすべてが失われる。ま、プレイヤーにはおぞましいほどのしつこさが必要なのだ。いい言い方をすれば粘り強さなどともいうが、その呪わしい鍛練には「しつこさ」の方が似合う。
長時間の吹奏が困難に思えてきたあたりからイメージトレーニング的なアプローチをすることが増えた。音はサブトーン気味に抑えメロディアスな線の動きに集中する。これで幾分体力的な消耗は軽減される。だが、脳味噌関係がかなり疲れ、午前中2時間ほどやると眩暈を起こす。
午後は疲れないメニューに変えてやる。最後は吹いていて嬉しくなるメニューを用意して終える。ま、詳しいことは書かない。鍛練というものは時間がかかるものであることは間違いない。
歳を取るに従い脳は固くなってしまうらしく、新しい閃きや柔軟な発想は少しずつ失われていくような気がし始める。なにかに蓋がされていくようなイメージがある。で、毎日その蓋を外す作業をしている感覚が近いかもしれない。たぶん、記憶容量に空き部分が多く、いくらでも吸収できたものと推察されるが、若いころの柔軟さが何だったのかを知る手立てはない。
ここ数年は、馬力で吹くやり方と違い、消え入りそうな小さい音でなにかを得ようとしていた。
これで手に入ったたものもあれば失われたものもある。小さい音は、それだけを目指せば、単に弱々しい音になりさがるリスクを負う。強い音があっての小さい音であって、そこの折り合いが難しい。で、軌道修正中。
20代の頃にインプットされたのは、同じことを繰り返さないことだった。いつも違うことを演奏することが正しいと頑なに信じ込んだ。もちろん他人が聞けば同じようなものだと思われたとしても、自分が新しい発想で吹けていると自覚できることが大事だった。ま、困難な道ではある。
それは共演者にも関係してくるわけで、例えばピアノの大石氏との演奏では、たびたび至福の時が訪れた。彼はバッキングで常になにかを仕掛けてきた。それに反応できれば次々と新しい展開があった。途中で何の曲をやっているか忘れることさえあった。新しいことは突然手に入るものでもなく、少しずつの冒険が重なった時に得られるものらしい。
6年ほど前、ソニー・ロリンズの新譜はメジャーレーベルからではなく彼自身のレーベル「ドキシー」からの発売だった。彼のサイトに直接注文して買った。手書きの住所氏名が書かれた小包で受け取った。
最初、往年の音色とはあまりにも違う表現に驚き、しばらく聞かなかった。最近、改めて聞いて進化し続ける巨匠に脱帽することになった。いつの時代ともシンクロしない、今のロリンズ独自の世界がある。特に最後のスリーコードの曲のソロにやられっぱなし。80過ぎても進化するってのは、もはや神業も超えたと思える。